素読は、砂遊びと同じ。

エイメイ学院/明成個別では、学習ルーティンというものがある。

これは、英語音読、国語音読を授業に来ているときは毎日実施すること。

そこで、音読する際の疑問として

「意味がわからない文を音読する意味があるか?」

というものが出てくるだろう。

答えとしては、ない、と言いたくなるのだが本当だろうか?

もちろん、意味がわかっているものほうがいいように思う。

しかし、意味のわからない文を読むことには、意味がないと断言していいのだろうか?

なぜなら、素読という、主に漢文で行われている習得法の一つで、意味はわからずともとりあえず音読をする方法が昔から存在しているからだ。

意味がないものがそんなに長く存在し続けるのだろうか?

一見、意味がないように見えるからこそ義務教育の中からはずれているけれど、本当は意味がちゃんとあるのではないか?

そう思って「素読のすすめ」という本を読んでみた。

そこで書いてあったこととして一つ発見があったのは

「素読は砂遊びと一緒で、目的なんて考えず、ただ言葉のリズムを楽しむことからスタートする」とのことだ。

なるほど、これは確かに、と思った。

どうしても、何でもかんでも目に見える価値ばかりに囚われがちだが、音読をしてみることの楽しさは確かにある。

私は中3で英語が好きになったのだが、単純に英語を話すのがかっこいいと思ったこともその理由の1つである。

そして、それっぽく英語を読めるようになったときには、

別に目的なんてどうでも良くて、ただ「英語、かっこいいなぁと」その音そのものを楽しんでいる瞬間がある。

もちろん、読む文のリズム等もあるのだと思うが、古典はそのリズムも秀逸だからこそ現代まで読みつがれているのかもしれない。

まだ、読み始めたばかりだが、一つの気づきがあったのでシェアをしてみた。

この記事を書いた人

石橋 凌